令和5年卒 玉木譲
先日、早慶合同稽古にお邪魔しました。新入生である一年部員の大多数は初の出稽古であり、新鮮な心持ちだったと思います。私も下級生だったころの記憶を辿ると、随分緊張した覚えがあります。
早稲田の合気道部は心身統一ではありませんから、我々が当然視している前提が共有されていないこともありますし、早稲田部員から見れば、下級生であっても「慶應の部員」であり、「慶應の合氣道を教えてくれる人」になります。「間違えたことを伝えてはならない」「わかりやすく伝えなければならない」などと色々考えましたが、この感情が日々の稽古の燃料になってくれました。
慶應の稽古では、新妻主将による統率のもと、統一体に関する稽古の後に肩取り一教が扱われ、早稲田稽古では堺主将統率による「押し倒し」と「腕返し」が扱われました。慶應統率では早稲田の技との関連を、早稲田統率では慶應の技の関連が指摘されていました。私が現役時代にやりたかったことやできなかったことを実現している様子を見て、羨ましさや嬉しさを感じました。
これを可能にした新妻主将や堺主将をはじめとする部員諸君と、谷繁監督をはじめとした指導陣各位の偉大さや頼もしさを改めて実感します。それぞれ、自分たちが学ぶ合氣道を客観視し、相対化することができたのではないかと思いますし、「伝える」ということの困難性を再認識できた部員もいるのではないかと思います。
私は現役時代から、この交流に特別な感情を持っていました。早稲田の同期たちを敬愛していたことはもちろんですが、富木流合気道を学ぶ者と心身統一を学ぶ者同士が定期的に合同稽古することの営為そのものに大きな意味を感じておりました。
前述した各自の合氣道理解の深化や視野の拡大といった要素にとどまらない、大きな可能性を秘めていると考えるからです。
周知のとおり、嘉納先生のもとで講道館柔道の技や思想を修めた富木先生は、合気道の競技化を成し遂げました。一方の藤平先生は、時に強い論調で競技剣道を批判するなど、試合形式を採用しないことによって涵養される要素を重要視しました。
両理念には一元化不可能な要素、二者択一に帰趨できない素晴らしさがあります。そのような二者の接触は、ほかにあまり見られないのではないでしょうか。
「異なる他者」の存在が顕在化する昨今において掲げられる「多様性」の中には、同一性を肥大化させて強調した不同要素の無視や剥奪、寛容を演じた他者理解の努力放棄も見受けられます。
これらの打開に、早慶交流の営為が示唆を育んでくれるのではないかと期待しています。短絡的な答えを出して満足したり、相互理解の困難性や不可能性に目を向けて諦めたりすることなく、弁証法的に活動し続けて欲しいと願っております。
勝手な期待を抱きながら、今後も後輩たちの成長する様子を楽しませていただきます。